公益財団法人山形県国際交流協会 AIRY

お知らせ

ブラジル山形県人会創立70周年記念式典 【機関紙AIRY 102号から】

今から100年以上前の1908年(明治41年)、本県からブラジルに向けての集団移住が始まりました。その後1953年(昭和28年)にブラジル山形県人会が山形縣同郷會として創立され、今年でちょうど70年になります。その記念式典が10月29日にブラジルのパラナ州ロンドリーナ市で盛大に催され、山形県からは吉村知事などが来賓として出席しました。

70周年記念式典で祝辞を述べる吉村知事。式典には約300人が参加し、林禎二駐ブラジル日本国大使やブラジル連邦下院議員、パラナ州議会議員ら多数の来賓が出席。ペルーとパラグアイの山形県人会からも代表者が参加しました。
式典終了後に鏡割りを行う吉村知事、森田県議会議長、山本天童市長、安孫子JA山形中央会副会長理事、佐藤マリオ・ブラジル県人会会長、林大使、濵田在クリチバ日本国総領事とブラジル側来賓。鏡割りの後は参加者全員で乾杯を行いました。
28日には県訪問団を迎え近郊アサイー市で昼食会が催されました。同市市長や地元の日系人・県系人など約100人が参加し、市内の農場で採れたみかんジュースや同日早朝から4時間かけて焼いた豚の丸焼きなどが振舞われました。
28日夜に開催された歓迎夕食会で県人会ロンドリーナ支部婦人部の皆さん、式典会場を提供した吉井篤氏夫人の貴美子さん(前列右)と吉村知事。夕食会では同婦人部が用意した食事に舌鼓をうち、参加者が親睦を深めました。

山形県人移住のあゆみ

1908年(明治41)4月28日、移民を乗せた「笠戸丸」が神戸を出港し、6月18日、ブラジルのサンパウロに到着したところからブラジル移住の歴史が始まります。日本人の集団移住は1868年(明治元)のハワイ移住にはじまり、続いてアメリカ本土やカナダ等に広がりました。しかし排日運動が深刻化し、アメリカやハワイ等への移住が禁止され、次の移住先となったのがブラジルでした。

最初の移住者の多くはコーヒー園の契約労働者として入植しました。移住者の斡旋はすべて民間で行われていましたが、日本政府が積極的に移住を推進したのは1924年(大正13)以降で、その最盛期は1933年(昭和8)~1934年(昭和9)、この間に年間2万人を超す人が移住しており、1908年から1941年まで約19万人がブラジルに渡っています。

「笠戸丸」には大石田町出身の高桑治平が乗船しており、正式に入国した山形県移民の第1号とされています。しかしその1年半前には大石田町出身の鈴木貞次郎がブラジルに入国し、移民の先駆としてコーヒー園労働の体験をし、笠戸丸移民が到着した際には通訳をするなど、日本人移民の草分けとして尽力しています。彼らを筆頭に、山形県からの移住者は1906年(明治39)から1978年(昭和53)までの間に5,826人になります。